終戦の日、すずさんは何に打ちのめされたのか。【『この世界の片隅に』感想】
先日、片渕監督の『この世界の片隅に』が地上波で放映された。戦争を取り扱っている作品だ。主人公のちょっとのんびりやな女性:すずさんの存在感を際立たせるとともに、当時の状況の考査をもって、人の生活感を描き出している。
日本国内での賞はもちろんのこと、国外においてもアヌシー国際アニメーション映画祭などに名前を挙げられた。こうの史代さんによるマンガ原作も合わせ、国内外問わず高い評価を得ていることは間違いない。
私も劇場で観たが、改めて感想をと筆を取った次第である。
私がしたためるのは、作中内でも印象に残るだろう場面。終戦日、8月15日にすずさんが終戦の放送を聴いてのち、近所の家屋から太極旗(厳密には描かれているのは朝鮮の独立旗)が揚げられたシーンについてである。
描かれたのは"加害者意識"
本シーンをめぐる議論は、ここで描かれた朝鮮の独立旗とすずさんを中心としたものとなっている。簡潔にいえば、人々に染み付いた敗戦国という"被害者意識"に一石を投じるものとなっているからである。
当時の日本の人たちに植え付けられた敗戦の記憶と意識は現代人にも大いに残っているものだろう。
その要因のひとつは二発の原子爆弾。これらはあまりにも暴力的で鮮明な記憶を植えつける。また、メディアではその記憶を碑として綿々と語り継いでいく。やや前には「原爆の記憶」を下の代に語る者がいなくなってしまう、と神妙な面持ちでアナウンサーが言っていた。
もうひとつは、かの大戦が国全体、国民が一丸となっての玉砕だったことだ。ある者は戦いに、ある者は武器をこさえ、ある者は飢餓に苦しんだ。国民全員で臨んだ戦争があっけらかんと終わってしまったのだ。
上記のうち特に後者の考え方は、戦後のサブカルチャーに大きな影響を与えた。それは「戦争をどのようにエンターテインメント、商品として扱うか」という考えで表出された。
『宇宙戦艦ヤマト』では、あの戦艦:大和が放射能に汚染された大地を離れ宇宙へと飛び立って行くその雄々しさに惹かれ、ガミラス帝国と戦う古代 進とヤマト、そして波動砲に胸打たれ、森雪とのラブロマンスにエンタメを感じた。
『ウルトラシリーズ』では我々を脅かす怪獣らをウルトラマンたちが投げたり蹴ったりビームを撃ったりと倒すまでのプロレスを魅せてくれた。(※)
これらのカルチャーの下に根付いているのは、帝国や怪獣といった侵略者、見立てた「敵」に対していかようにして勝利を収めるか、という点だ。アメリカ含む敵を見立てた怪獣や帝国を私達のヒーロー、ヤマトやウルトラマンが抵抗あるいは排除するのである。皮肉なことに勝利を収めるための策が、波動砲やウルトラマンといったある種暴力的で圧倒的な兵器であることには、かの原爆の威力がカルチャーの担い手にしみついていたと思わざるをえない。
しかし、戦後からこれまでの日本文化は被害者意識のみが膨れ大戦にて日本が他国を脅かしていた、攻撃していた「加害者でもあること」をどんどん薄れさせていった。圧倒的暴力に負け、暴力はいけないことであると染み付いたため、自分たちが振るった暴力から目を背けるようになってしまったのだ。
まあ正直戦争なんて敵と敵しかいないんですから、みんな加害者、みんな被害者みたいなもんなんですよ。しかしそれが取り上げられなくなってしまった。 そんな被害者しかいない日本に、当時虐げられていた朝鮮人たちの喜びの発出を突きつけたのだから、このシーンは議論を呼ぶのが当然でしょう。
すずさんを打ちのめした"欺瞞"
『この世界の片隅に』のアニメ映画が上映されてからの本シーンには、議論を呼ぶ種があった。それは原作と映画でのすずさんの台詞の違いだ。
原作
「この国から正義が飛び去ってゆく」
「暴力で従えとったいう事か」
「じぇけえ暴力に屈するいうことかね」
「それがこの国の正体かね」
「うちも知らんまま死にたかったなあ……」
アニメ映画
「飛び去っていく、うちらのこれまでが。それでいいと思って来たものが」
「だがら我慢しようと思ってきたその理由が」
「海の向こうから来たお米、大豆、そんなもんで出来とるんじゃな、うちは」
「じゃけ、暴力にも屈せんとならんのかね。なんも考えん、ぼーっとしたうちのまま死にたかったな」
議論にあがる改変は、すずさんや我々が意識していなかった「暴力で従えとった」という部分が、食べ物についての台詞に変わっていることだ。加害者意識を薄れさせる政治的な意図があるのではないかと反響を呼んだ。
この改変について片渕監督は、あくまですずさんは一般の人であって国を背負うような発言をするには重いと感じたとし、すずさんの等身大としてこのシーンを描き出したとしている。
正直、このシーンには違和感を覚えた。
すずさんは物語前半ではのんびりした人だったが、いく度の空襲、通常の爆弾に混ぜて投下された時限爆弾によって義姉の娘と自分の右手をなくし、戦争がある世界に従事していた。敗戦の玉音放送を聴いた集まりでは、他の人たちが「はー、やっと終わったー」などと息を吐く中、すずさんは一億玉砕の覚悟とはなんだったのかと激高した。
これだけ戦争にのめりこんでいたすずさんが、「お国のため」の大義名分が紛い物だったことを自覚したとき、なぜ原作のような激しい気持ちの高ぶりではなく、落ち着いていてまるで他人事のような口ぶりで一語ったのか。
改めて作品をみたことでわかったことは、原作のすずさんに思い入れている私達の視点が戦争のイメージを簡略化してしまっていることだ。戦争に敗北した、だから国民全員が悔しがっている、悲しんでいる。というイメージの元に捉えているのだ。
戦争というのは確かに国家一丸、誰しもが苦労をした出来事だろう。しかし、すずさんたちにとって大切なのは果たして戦争での勝敗なのだろうか。否、彼女たちが気にしていたのは勝った負けたではなく、自分たちの手の届く範囲での生活なのだ。
先にも書いたとおり、すずさんは戦争へとのめりこんで行く。極めつけは右手を失ったことを自覚したことだろう。作中ではすずさんが嫁いできた呉市は空襲が酷いから、実家のほうに戻ってこないかと問われた際に、自分が空襲から遠のいた生活へと戻ることに違和感を覚えたすずさんが表現されている。
しかし、いくら戦争にのめりこんでいても彼女たちの生活は続く。戦争は生活の全てではないのである。映画におけるすずさんの涙は、その自覚を取り戻すためのものとも感じられる。
そう捉えると、すずさんの改変された台詞は見事な様相を表す。彼女は台所に立つ姿がよく表現されている。戦争が激化するにつれて、食事のやりくりや米の配給列に並んでいる姿なども描かれている。
日々の生活にかかせない、食事の担い手だ。
米の配給台帳ももっているし、ましてや流通している米の中にタイ米などの外米が混ぜられているのは知っているだろう。そしてそのタイ米は、日本軍が進駐しているがため手に入るものだ。
映画での台詞は、最も身近な食事にさえ暴力が関わっているというのに、それがまさに大義名分によって隠されてしまっていた、無自覚になってしまっていたすずさんを実によく表現しているといえるだろう。
昨今のカルチャーでは、加害者意識などは勿論のこと、多種多様な考えや想いが描き出される。そんな時代の流れの中で、私達観客はなにを感じ、なにを考えていけばよいのか、それについて自覚する必要があるのかもしれない。
(※)ウルトラシリーズでの議論は様々なものがある。アメリカに見立てた怪獣から守ってくれる日本の神ウルトラマン、他国の脅威から守ってくれるアメリカ:ウルトラマン、味方かと考えられてきたウルトラマンは実は怪獣との闘いを通して街を壊す無自覚な敵だ。などの捉え方がある。